にしまいづる今昔紀行第二弾「魅せます!ぼくらの西舞鶴」ご報告!

第一弾に続いて、第二弾のご報告です。遅くなってごめんなさい。楽しんでいってください^^

11月6日(日)曇り時々少雨
本当に誰ですか、雨女!私…?ということで、またもや快晴には恵まれない洛々研。が、幸い雨はほとんど降らずどんよりとした雲の下、蒸し暑い一日となりました。今回は先週の反省も生かし(?)運転手が交代できる大型レンタカー作戦です。トヨタのNoahくんにお世話になり、朝7:30出発。
10:30からは高校生たちとリハーサル。高校生の熱意がものすごくて押される洛々研メンバー(主に私)。さらに、高校生らしい緊張と心配がこちらにも伝わってきて、一瞬若返った気分でした。←
ご飯を食べて打ち合わせした後、いざ、集合場所へ…
さて、ここでお決まりのコンセプト説明です!第一弾では芸屋台(地域の昔の財産)を取り上げました。これと対照的に第二弾では西舞鶴のまちを歩いて、見て、食べて、「今、現在」の西舞鶴へのまなざしを参加者の皆さんと共有し、あらゆる世代から見た西舞鶴を発見していきたい。これが今回のコンセプト。そこで、高校生と学生のコラボツアーが完成したのです!


では、さっそく、参りますか!!
来て下さったのは前週も来てくださった20代男性と郷土資料館の方、さらに一般男性の方一名と御夫婦一組が来てくださいました。まずはうちの水口から初めの挨拶をしてもらい、引き続き高校生から高校生ツアーの説明をしてもらいました。
今回はOBOGの方々が来て下さったこともあり、とてもにぎやかです(笑)



まずは田辺城へ…

高校生からの説明はなかなかのものです!細川幽斎のろう城の話から舞鶴の語源まで。笑いを交えながら詳しく説明してくれたので、みんな引き込まれるように聞いています。



続いて明倫小学校へ。せっかくですので、高校生の説明を一部抜粋します!

「明倫小学校の歴史は牧野家の第3代目当主の創設による明倫齋にさかのぼります。その後改築し、明倫館と改称されました。今の明倫小学校は明治5年の学校発布に伴い、明倫館の土地と建物を引き継ぎ庶民の学校として誕生したものです。明治6年4月13日のことでした。正門は明倫館当時のものを移築したもので、昔ながらの面影が今も残っています。」



西舞鶴の魅力は歴史的なものだけではありません。続いてはJAグループ京都の「彩菜館舞鶴店です。
「ここで売られている農作物には、作られた日付、原材料、作った団体や名前などが書かれています。そのため、前にこの人が作ったこれが美味しかったと思えば、またその人の名前の同じ農作物を探せば、また美味しいと思った農作物を手にし、食べることができます。そして一番スーパーと違うのはお客さんと店員さんとの壁があまりないことです。いろいろな農作物が売っているので、作り方や保存の仕方などわからなくても、店員の方は詳しく、フレンドリーに接する方ばかりなので、親しみをもて、料理のレパートリーが増えるなど、専門店ならではの良さもあります。」

予定外ではありましたが、お店のなかに入ってみなさん舞鶴の名産を選んでいらっしゃいました。


次に国道27号線を横断して真名井の清水へ。

「真名井の清水は奈良時代の丹後風土記に「その味甘露の如し、万病を癒す力がある」と記されるほどおいしく、最低限の水質検査しか行われていないにも関わらず地元の人々が毎日汲みにきているほど地元に愛されています。また細川幽斎がこの水を田辺城の城内へ引き入れていたといわれ、湧水の都市上水道として日本最古とされています。」試しに水を飲まれた方もいらっしゃいました。


そして、ちょっと気になる西舞鶴人面鯉を見るため北上。
「あまり顔を出さないのではっきりと見ることが出来るかわかりませんが、もし見れればとてもラッキーでしょう。おじさんのような顔をしておりなんとなく親しみがわいてきます。人面鯉の存在はあまり知られておらず、地元民でも知らないと言う人が多いです。とても珍しい人面鯉ですが、中筋小学校を正面に右方向にある池でもう一匹人面鯉を見ることができます。」

みんなめっちゃ探してます!あっいた!

う〜む、渋い…


続いて、洛々研も何度か利用させていただいた現役銭湯若の湯

「若の湯の創業は1903年で、現在の建物は昭和初期に完成しました。若の湯の特徴は脱衣場が真ん中にあるので男風呂と女風呂の間に脱衣場が挟まれているという、あまりない珍しい構造になっています。そんな若の湯は1998年3月6日の京都新聞にお客さんの癒しの場として紹介され夏には海水浴の学生グループや家族でにぎやかになると、掲載されています。」その外観のレトロさ故か、はたまた番台のおばあちゃんの優しさに癒されるためか地元の方々を始めとする多くの人々に愛されています。



高校生ツアー最後は昨年12月にオープンしたというかわいらしいパン屋さん「コムギ屋

「可愛く、おしゃれな外観にひかれて入る学生や女性が多く、可愛い小さなアンティークや、店員の方とのコミュニケーションなどで楽しく買い物できるのも人気の一つです。コムギ屋では生地にこだわりをもっているそうです。期間限定のパンや、あまりない組み合わせなど、さまざまなパンがあります。売り切れになるパンの一つとしてあげられるのが、メロンパンです。外はサクサクで中はもっちもちという、まさに生地にこだわりがあるからこそ作り出されるパンと言ってもいいほどの美味しさが人気をよんでいます。」




ここでツアーも半分終わり、30分の休憩を挟みました。もちろん場所は宰嘉庵

お茶とお菓子をお出しして、普段閉まっている宰嘉庵の中をじっくり見ていただきました。この前行われた人形展のお人形もいくつか展示したままにしてあったので、みなさん興味深げに見て回っていらっしゃいました。


後半は大学生ツアー。なんとか時間通りに進めたい…
最初は登録有形文化財に指定されている「渡邊家」前で会長から西舞鶴景観と文化財について。

西舞鶴は旧田辺城城下町ということで、江戸時代からある町家・土蔵が多く残っています。もちろん、明治時代に海軍鎮守府が置かれたことで景観は大きく変化しましたが、その際に作られた建物(現在の近代化遺産)に関しても戦後取り壊されるなど、西舞鶴は時代ごとに姿を変えています。現在、西舞鶴登録有形文化財に指定されているのはこの渡邊家だけですが、この他にも江戸明治期に建てられた趣のあるお家がたくさん残っています。ところが近年、高齢化が進み維持管理が厳しくなるなどの問題から、古い商家が取り壊されています。今回私がここを取り上げたのは、同じ町家の景観にしても、私が生まれ育った京都市内のようなきれいに整備されていたり人々の注目が集まる場所よりも、素朴で落ち着いた雰囲気の西舞鶴の歴史的町並みの方が好きだからです。


お次は岡本から強制疎開についてのお話。

一目でわかりますね… 「舞鶴市には海軍鎮守府がおれており重要な軍港であり、さらに海軍工廠などの軍事施設・軍需工場が集中していたために空襲の標的とされる危険性が高い地域でした。舞鶴市での強制疎開は昭和20(1945)年4月5日より行われています。延焼防止や避難場所の確保、幹線道路・鉄道沿線地域を主に着手し、対象家屋は1200戸と確定されていました。昭和20(1945)年7月29日と30日には、舞鶴市域において空襲による大きな被害がありました。海軍工廠や港湾地区を中心に被害が出ており、両日で300人を超える死者があったと言われます。」説明の後は5枚の地図と1枚の空中写真を使って、疎開の様子を詳しく解説してくれました。



続いて、橋を渡って桂林寺へ。桂林寺では新人(?)田前が、初めての発表を半ば無茶ぶりでやってくれました。

桂林寺には府指定文化財・市指定文化財があり、西舞鶴でも随一の由緒あるお寺です。1年前、ここのご住職にお話を伺った際には、100年後までにここら一帯を門前町にするという目標を語っておられました!


我らがすみぷーは期待を裏切らず、朝代遊郭について説明してくれました。

「朝代遊廓は舞鶴軍港都市になるに伴い、明治21年に「貸座敷免許指定」を受けスタートしました。昭和33年の売春防止法によって公娼制度が廃止されたことをうけて、朝代遊廓も解散しました。千野宮神社の境内には、「朝代貸席組合」の玉垣や「朝代芸妓一同」各店の屋号の玉垣が残されており、往時の朝代の繁栄ぶりを示しています。

この玉垣は昭和30年の土砂崩れによって崩壊した時に建て直されたものです。」

朝代遊郭跡付近。


では、時間もおしてきたことですし帰路につきましょう!JR西舞鶴駅に戻ってきたころには15時半になっていました…

私はこの後、第一弾のお礼に伺っていたため、まとめに出席できていませんがOBOGの皆様も含め、よい議論ができたようです。以下アンケートから一部抜粋。
「高校生も普段の勉強よりも違った一日で、私達にせいいっぱい伝えてくださりありがたかったです。」
「高校生のmapに出来たばかりのパン屋さんが入っていたこと。古いものの魅力は勿論だけど、暮らす人々にとっては新しいモノの魅力というのもある。」
「芸屋台のように、全国に誇れるものがたくさん詰まっている。逆に、それらがオープンにされていないところも西舞鶴の魅力かも知れない。あまり発展していないからこそ残っているのかも、と最近思うようになりました。」
「新しい魅力というのは古き良き街から生まれるのだと知れました。」
アンケートでは、宰嘉庵をイベントで使ってみたいという声も多く、宰嘉庵のアピールにもつながりました!一方で、やはり宣伝力の問題やコンセプトに基づく各場所の意味づけが弱かった点など、反省点も見えてきました。今後の活動に積極的に生かしていきたいと思います!


こうして、二日間にわたる私たち洛中洛外研究会の国民文化祭企画は幕を閉じました。2年の時間は長いようであっという間。反省点や後悔はもちろんあるけれど、学生のうちにこのような機会を与えてくださった府職員さんやOBOGの皆さん、石田さん、その他関わってくださった全ての方々、そしてなによりも西舞鶴の地域の皆様に心から感謝します。
私たち学生には4年間という地域と関わっていくには短すぎる時間しか許されていません。そのため、その間に何かを成し遂げたり完成させたりすることは到底できないと思っています。ただ、時々訪れては地域の方々とふれあい、自分たちの学びや生き方につながっていく。お互いに刺激しあいながら地域を見つめなおしてみる。それが微量ながらも「変化」になれば◎。そのスタンスを忘れずに今後も西舞鶴やそのほかたくさんの地域と関わっていきたいと思います。
皆さま、本当にお疲れ様でした!



またね!